アリゾナ在住日系人の足跡

在米日本人/日系人の足跡

 日米の関係は、1860年に成臨丸に乗った勝海舟がワシントンに来て、日米修好通称条約を結んでから始まった。以来、日本人の多くが米国の地に入植、定住してきた。日米両国は、様々な紆余曲折を経て、今日に至っているが、何といっても歴史上の大きな汚点は、太平洋戦争だ。 その戦争前後の在米日本人や日系人の苦労は、 残念ながら、現在の日本人の中でよく知られていない。
 今月号と来月号では、在米とりわけアリゾナ在住の日系人の是跡
を調べてみた。

 
 
初期に渡米した日本人

 初期には、開国、明治維新という激動の日本から様々な目的を持って渡米した日本人がいた。西洋文明を学ぶ学生、貿易事業を日指したビジネスマン。しかし、多くの日本人は農業を中心とした労働者としてアメリカ社会に入っていった。
 日本人の農業部門での進出が著しくなると、白人の農業労働者から日本人排斥運動が起こり始まる。その直接原因は、低廉な日本人労働に対する反撃だった。  
 1892年にはカリフォルニア州で日人労働者が日本人労働者を襲うような事件が起こり、日本人への妨害が始まる。1893年、 サンフランシスコ市敏育委員会は、日本人学生の公立学校入学を拒絶。日本政府からの抗議と時のルーズベルト大統領の命令によって、学童問題は、一応、解決したが、1913年にはカリフォルニア州で外国人土地法が可決され、日本人の土地所有が禁止される。 その後、 他州もカリフォルニアに追随し、次々と排日土地法を可決させ、農業を営む日本人は土地の所有、借用ができなくなる。そして、排日気運は更に盛り上がり、1924年米国連邦議会を通過して、クーリッジ大統領の署名で実施された「米国新移民法」は、日本からの移民を禁じ、 特別な例外を除いて、移民のための渡米は一切できなくなった。

 

 

悪化を招いた大恐慌と日本軍部

 

 また、1929年に起こった大恐慌は、一旗挙げたら日本に帰国しようとアメリカで懸命に働いた日本人に経済的な大打撃を与えた。更に、1931年に満州事変が起こり、日本軍が中国大陸に進出し始めると、米国内の対日感情は一層悪化。  1932年に日本が国連を脱退し、1937年に支罪事変に突入。対日関係の悪化は、米国内に住む日本人/日系人の立場を傾度に危険なものにしていく。

 
 
そして、あのパールハーバー

 1941年12月7日に日本海電航空隊が、ハワイのパールハーバーに出現して、米国艦隊と海軍基地に空爆。この日から日本人は、敵国人となる。FBI は、このような事態を予め予想して作っていたブラックリストによって、西海岸を中心に日本人の検挙を次々と始める。邦政府は、日系人の銀行金を封鎖、資産を凍結。そして、 11万余の日本人一世、二世が強制立退を命ぜられ、全米10ヶ所のキャンプに収容される。差別とt因の中をただ 生懸命働いてきた無実の人達が犯罪人扱いを受けるという、歴史の汚点を作ってしまった。

 
 
アリゾナの日本人パイオニア

 日本人のアリゾナ州への入植は、フェニックス、グレンデール、メサの一帯に尿業労働者として始まった。初期の日本人は、アリゾナ農業にとって大功労者だ。代表的な農産物は、レタス、 カンタロープで、その他、砂糖大根、いちご、トマト、縮などの生産に果敢に挑戦した。1930年代には、フェニックス-帯約30万エーカーの内10万エーカーが農地。そこに、アメリカ人農家4,000人、外国人農家180人。その内日本人が120人就業していたという統計がある。
 1929年の大恐慌で東部などから仕事を求めて多くの白人がアリナに移動し始め、白人農家からの排日運動が盛んになる。1934年だけでも、日本人の被害は、直接築行10件、被害者69名。日本人は相互に助け合うべく、 1923年にアリゾナ日本人農業組合を創立し、1930年には、以前から存在していたアリゾナ日本人(1910年創立)と合併。1926年に、日本人会付属の日本語学園設立(Indian School Rd & 43rd Ave.)。ところが1939年に一方的に学園閉鎖を命ぜられる多難を極める。

   
戦時のアリゾナ日系人

 このような差別、いやがらせ、暴力の被害に耐えながら生きてきたアリゾナの日系人に、決定的な危機が押し寄せる。それが、前述のパールハーバーだ。フェニックスを中心に点在していた日系人は、その約 50%が強制的に立退を命令させる。        
 政府は、フェニックスー帯をステート60番の公道を境に南北に分け、それより南に住んでいた日系人だけを立逃かせ、日本人/日系人の立ち入りも禁止した。(グレンデールのGrand Ave.,フェニックスはVan Buren、メサは、Apache - Mainを境界線にした。)
 境界線を引いた理由や境界線をステート60番にした背景は、未だに明確でない。境界線より北に住んでいた日系人で南にある農園で仕事をしていた人達は、仕事ができなくなった。強制立退の日系人は約50家族、 243名が1942年5月8日にグレイハウンドのバスで、時的にメーヤー収容所に、その後、ポストンの収容所に収容される。彼等は、長年築いてきた生活の基礎を全て捨てて、商店経営者は店を捨て売り、農家は農園を捨てて退去しなければならなかった。

   
アリゾナ強制収容キャンプ

 戦時中にアリゾナ州には、日系人収容所が2ヶ所あった。アリゾナ州に住んでいた日系人は、ボストン(Poston)に収容され、ヒラリバー(Gila River)には、他州(多くがカリフォルニア)から移動させられた日系人が収容された。フェニックスから一番近い収容所は、ヒラリバー収容所で、現在のヒラ・インディアン居留区内にあった。今は、当時の面影もないが、記念碑が建てられている。

   
いんたびゅー
井下正次さん

 両親は、熊本県天草出身。正次さんも久江さんもアメリカ生まれの二世。1942年にカリフォルニアから強制立ち退きで、ヒラリバー強制収容所に。正次さんは、1919年生まれ。現在は、グレンデールで奥さんの久江さんと二人暮らし。

 

 
どちらでお生まれですか?

 カリフォルニアのフレスノです。その後、サンタマリアで育ち、戦争が始まるまでロサンゼルスにいました。

   
お子さんは?

男が2人と女が人です。皆成長して、それぞれ家庭を持っています。

 
戦争が起きてどうなりましたか?

 まず父が戦争が始まって2、3日してすぐFBIに検挙され、司法省の収容所に抑留されました。残された私たち家族は、1942年4月16日に立退を強制され、8月にヒラリバーの収容所に連れていかれました。

 
お父さんは?

 父は、モンタナ州のミスーラ·キャンプ、ノース·ダコタ州のピスマルク·キャンプと転々とし、同年の末にヒラーリバーの私達の所に来て一緒になりましたが、その時は私はすでに志願して米軍に入っていてキャンプにはいませんでした。家内の父は、カリフォルニアの日系社会で指導的な役割をしていたため、政府から危険分子と見られ、ヒラリバー収容所に来たのはずっと後でした。
 当時の日本人、日系人の人達はどんな風に収容所に送られたのですか?
いきなり立退を命令されたんです。

 

 
連邦警察が来た時に、何か説明があったんですか?

 何もありません。1942年の4月の始めころから、街の電柱などに日本人立退の命令が握示されました。私の持っているこの命令書の写真を見ると、日付が5月3日で、5月5日までに立退承諾の申し出をして、5月9日が立退の日となっています。

 
こんな短期間で財産などをどんな風に処分したんですか?

 ある人は、白人の友達に預かってもらったり、捨てるように処分したり。
政府から学校などで預かりますと言われて、預けた人達もいましたが、戦後、キャンプから戻ってみれば、全て盗まれて何も戻ってこない人ばかりでした。

 
家を持っていた人達は?

 当時、家を持っていた日本人は、多くが家のローンをかかえていました。キャンプに入ってしまうと、ローンを支払うことができず、銀行から没収されてしまいました。役収されない人でも、収容所から戻ってみると、自分の家に他人が住んでいて、返してもらえなかった人達もいます。

 
日系人は、戦後、すぐ収容所から出たのですか。

 戦争が終わると、キャンプ内にいやな噂が流れ、日系人は、「ジャップ」と言って嫌われてひどい差別を受けたり殺されたりすると言うんです。それで、収容所から出るのがこわくて、戻らないでいると、今度は収容所の方から「もう出ていけ」と言われ、25ドルの片道バス代だけ持たされて追い出されてしまいました。

 
そして、戻ってみると一文無

そうです。これほど辛いことはなかったと思いますよ。

 

 

日本人/日系人の収容の目的は?

 当初日本軍は大変攻勢で、多くのアメリカ軍の兵隊を捕虜いしていました。これは、政府の説明ではありませんが、日本側から米人補虜を収|引き戻すのに、交換として、アメリカ在住の日本人を収容所に収容しておこうとの意図があったことは確雑かです。

 

 

戦後かなりたってから、 アメリカ政府が当時の過ちを認め、 謝罪と保証金の支払いをおこないましたね。

 1988年時点で生存している日系人で収容所に収容された人達が対象です。それ以前に亡くなった人は、残念ながら保証が一切ありません。

 

 

ヒラリバー収容所はどうでしたか。

 ヒラリバー収容所は他の収容所に比べてずっと良い建物でした。と言うのは、外部に収容所の印象を良く診示する意図がありました。他の収容所は、バラック建てのような収容所でした。

 

 

キャンプ内の生活はどうでしたか?

 飯炊きや綿花を摘む仕事をしました。肉体労働の無理な一世の人達は、碁に興じたりしていました。収容所の外に農園があって、農作業もしました。 収容所内では、行動は自由で、仕事もありました。子供達のために学校もあり、白人や日系人の教師が来て教えてくれました。茶道、生け花などを楽しむこともできました。米人社会でもクェーカー教徒が随分日系人を助けようと奔走してくれました。 食事は、他の収容所では最初の頃は食べられたものではありませんでしが、ヒラ·リバーでは、日本食が毎日食べられ、如でも野菜を育てて、他の収容所にの送るほどでした。また、申し込めば、他州の農園で仕事をすることも可能でした

 

 

キャンプ内で差別待遇など受けましたか。

 米人と日本人との差別というより、日本人/日系人の間でうまくいかないことがありました。特にそれは、日系二世の帰米組とずっとアメリカで暮らしてきた人達との間で、戦争と米国への忠誠の捉え方が異なっていましたから。

 

 

井下さんは、いつまでキャンプにいたんですか?

 私は、1942年11月に志願して米軍に人隊しました。当時、ヒラリバーから29名の志願民が出ました。

 

 

なぜ志願したんですか?

 やはり自分の補回はアメリカです。また自分が志願すれば、残された両親、兄弟や同胞がアメリカ社会から良く見られるのでは、という期待もあったんです。 しかし、随分、もめました。

 

 

もめた、と言うと?

 一世の人達や二世でも帰米の日系人の人達は、日本と戦うことを良く思っていませんでしたから。かなり非難されました。

 

 

志願してどこに行ったんですか?

 当時の米軍は、日木語のわかる人を探していましたから、 日本軍対策の秘密研究をしていたミネソタ州の兵舎で6ヶ月訓練を受けました。その後、ミシシッピーの442部隊**の中で訓練。そしてカリフォルニアから軍艦に乗って、オーストラリアに配属になり、スリランカ、インドと移動しました。

 

 

どんなことをしていたんですか?

 インドでは、日本人捕虜の尋問。その後、ビルマに配属になり、やはり一日15から 20名の日本人捕虜の尋問をしました。

 

 

当時の捕虜の日本兵はどんな風でしたか?

日本兵は皆、お国のために死ぬまで戦えと教えられてきていましたが、内心は皆、日本に何としても生きて帰りたいと願っていました。
 マラリヤに罹って大変な思いをしていた被等ですが、私がアメリカ製のマラリヤ治療の薬をあげると、次の日から皆元気になるので、随分日本兵から感謝され、尋問にも快く協力してくれたんです。あの人達は、今ごろどうしているでしょうかねえ。

 

 

終戦は?

 終戦は中国の揚子江で迎え、日本軍の降伏式に出ました。東京、広島と占領軍として行きました。日本にそのまま残りたいとも思いましたが、アメリカにいる家族のことを考え、まもなく除隊を申し出て、こちらに戻ってきました。

 

 

アリゾナですか?

 はい。グレンデーールで両親が仕事を始めていましたので、手伝おうと。ところが、家族から、特に父からは歓迎されませんでした。

 

 

なぜ?

 志願して日本と戦ったからです。しばらく父との間はうまくいきませんでした。仕事も手伝広うことが許されず、自分でいろんな肉体労働を転々としました、ずいぶん貧之しましたよ。はっ、はっ、はっ。

 

 

戦争はひどいですね。

 本当ですよ。 親兄弟の間を引き裂いてしまうんですから。戦争が終わって、もう50年以上たっている今でさえ、ノーノー組**の日系人の人達からは、「わざわざ志願してまで戦争に行かなくても良かった」と言われます。

 

 

でも、それは井下さんが悪いんじゃないですよね。

戦争です。今でも私達の立場をわかってもらえないんです。

 

 

日系二世の人達の戦後は終わっていませんね。
最後に、井下さんは日本語がお上手ですが、ご自分を日本人だと思いますか?
それともアメリカ人だと思いますか?

私の心は、完壁にアメリカ人です。

 

 

どうも長時間ありがとうございました。

 

 

**442部隊:1943年に組織された日系人だけの米軍部隊。 米国への忠試を示すべく、日系人兵士は、ヨーロッパで果敢に戦って米国社会から称賛された。
***ノーノー組:日系人を対象に米政府が行った忠誠登録で、忠誠と対日戦争支持を尋ねるアンケートにノーと応えて忠誠と志願を拒否し、逮捕されたり受難が続いた。

ひとくち知識

APS(アリゾナ・パブリック・サービス社)の創始者は日本人

日本人で初めてアリゾナに足を踏み入れ、しかもフェニックスに多大な貢献をして、アリゾナの日本人として最初にアメリカ市民権を取得したパイオニアがいた。
名前は、大貫八郎。埼玉県出身。時は19世紀の話だ。1890年(明治3年)にシアトルに上陸した彼は、その後しばらくして、フェニックスにやってきた。アメリカ人の間では、彼は八郎ではなく、ハチュロン(Hutchlon)と呼ばれた。
当時は、ゴールラッシュの最中の西部だ。彼はフェニックスに飲料水が不足していることに目を付けた。そこで、井戸を掘って水を確保し、それを鉱山で売った。売れ行きは好調で彼は利潤を上げる。そして白人女性と結婚し、郊外に640エーカーの土地を購入して農業を経営し始めたのだ。
そして、フェニックスの町は発展する。そこに目を付けた彼は、ガス・電灯の会社を設立したのだ。市街電車や鉱山開発の事業を積極的に展開したいった彼は、ついに地元の有力者となった。
1904年に彼は事業の利権を市に譲渡して、シアトルに戻り、東洋銀行を経営。その後、コロラド州デンバーで活躍し、老後はサンディエゴで暮らした。
夫婦の間に4人の子供をもうけ、娘の一人は有名なオペラ歌手(大貫春子)となる。息子はフィリピンに移住し、マニラで最も富裕な市民となるが、太平洋戦争で日本がフィリピンに侵略した時、日本軍に囚われ、牢に入る。
1935年頃、フェニックス市では、大貫の功績をたたえて銅像を造る話が出たが、当時の排日機運で実現しなかった。
大貫がフェニックスで作ったガス・電灯の会社は、現在アリゾナ大手の電力会社APS(Arizona Public Service)である。

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