ウォルナット・キャニオンを歩く

古代インディアン、シナワ族の住居跡が次々と現れる。人里離れたキャニオンをゆっくり歩いて、12世紀頃の遺跡を楽しめるハイキング・コース。今月は、このウォルナット・キャニオンを訪れてみよう。

 
 
 
   
 

マウント・レモンに輝く日系人の功績

   マウント·レモンのカタリナ·ハイウェイは、囚人の労働力を使って建設されたことは、先月号でご紹介したり。その囚人の中にゴードン·ヒラバヤシを始め45名の日系人がいた。
   マウント・レモンノカタリナ・ハイウェイは、囚人の労働力を使って建設dされた。その囚人の中にゴードン・ヒラバヤシを始め日系人が45人いた。
 なぜ、彼等が囚人となったのか。その理由は、太平洋戦争と切っても切れない由緑がある。
ヒラバヤシは、シアトルで生まれた日系二世。日本がパールハバーを襲撃した時、シアトルのワシントン大学の学生だった。戦争が始まるとすぐに、当時のルーズベルト大統領が在米日本人/日系人の強制移動令に署名。次々と日系人が強制収容所に送られた。また、町では夜8時以降の外出禁止合は発令される。
ヒラバヤシは、自らFBIに赴き、強制移動と外出禁止令が人種偏見に基づいた人権無視の行為であり、憲法違反であると主張した。
 即刻、ヒラバヤシは逮捕され有罪判決を受ける。ヒラバヤシは、この判決を不服とし上訴。郡の刑務所に数カ月拘置され、そして最高裁。最高裁は、連邦政府の強制移動合や外出禁止介は、人種差別に基づいたものではなく、軍事上の必要性に基づいたものという判決を下し、ヒラバヤシは有罪。そして彼はツーソンの刑務所へ。
 この刑務所は、連邦名誉収容所で通称プリズン・キャンプと呼ばれ、 カタリナ·ハイウェイ建設の労働力を囚人を使って提供するのために作られた。ヒラバヤシは、ここで道路建設の作業をする。
   
誰が囚人?

 ヒラバヤシ以外にこの刑務所にいた日系人は、45名。彼らは、徴兵を拒否して逮捕されたり、強制収容所でアメリカ国家への忠誠を誓わなかった、いわゆる「ノーノー組」と呼ばれる日系人だった。
 そのほか、兵役を拒否してこの刑務所に送られてきた囚人は、ホピ族先住民、宗教団体「エホバの証人」の信者、また、日系人の強制収容に反対したアメリカ人などが含まれている。

   
人権回復へ
 1945年、日本が無条件降伏し終戦。その後、歴史家ピーター·アイロンズがある書類を発見する。この書類は、米法務省がある法延物証を保留しているという内容が書かれてあった。その法廷物証とは、戦時中の日系人の強制収容は軍事上の必要性に基づいたものではないということを示している、というものだった。これは、ヒラバヤシの有罪根拠を覆えす物証となる。
こうして、ヒラバヤシ裁判が再審となる。そして、1987年にヒラバヤシの有罪判決は覆えされ、一転して無罪となった。
 一年後、レーガン大統領は、1988年市民目由法に署名。この法律は、第二次世界大戦時における日系人の強制移動は、人種偏見、戦時下の異常心理、政治指導者の失敗に基づいていたものであったということを明記している。
   
カタリナ・ハイウェイにヒラバヤシの功績を

 プリズン・キャンプの名をゴードン・ヒラバヤシ・リクリエーション・サイトと改名。このアイデアを強力に進めた人が、マウント・レモンを管理しているコロナド国定森林局の考古学者、メリー・ファイルだった。彼女は、ヒラバヤシにこの案を出し、ヒラバヤシの合意を受ける。
 1999年11月7日にヒラバヤシ始め日系人代表者、州会議員が参加して、名称献星の儀式が行われた。政府、市民一体となってカタリナ·ハイウェイが人権間題を考える場所のつとなったのだ。
ヒラバヤシは、現在カナダのエドモントン在住。アルバータ大学の社会学名誉教授。

 
ゴードン・ヒラバヤシ・リクリエーション・サイトの正式標識が完成
 コロナド国定森林局では、ゴードン・ヒラバヤシ・リクリエーション・センターの標識と第二次世界大戦中の日系人強制収容の敬意を伝える掲示板を作成した。オープニングの儀式は、8月25日午前10時から、サンタ・カタリナ・ハイウェイの元プリズン・キャンプの場所で行われる。