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北の里、フラッグスタッフの昔と今

 標高7,000フィートの高地で発展した町、フラッグスタッフ。およそ砂漠のアリゾナのイメージからは全くかけ離れたスキー・リゾートの地だ。

 今月は、この北アリゾナの町を訪れ、その過去と現在を見てみよう。

 フラッグスタッフの地理

 フラッグスタッフの北には、サンフランシスコ・ピークという連峰がそびえ立っている。これは昔の火山活動でできた山々だ。中でもサンフランシスコ・ピークという山は、標高12,633フィート、3,851メートルと、富士山よりも高く、アリゾナで最も高い山である。

 この一帯は、ココニノ国有林に指定されており、松は白樺の森林地帯が広がっている。 

 
 古代のフラッグスタッフ

 約1万年以上前、地球は氷河期で陸地の3分の1が氷河で覆われていた。地球の寒冷化のため、川から海に流れ込む水量が減り、海面が著しく低下した。現在のベーリング海峡などが陸地化して、アラスカとシベリアが陸続きになっていた。こうして、シベリアやアジア大陸にいた人たちが、アラスカに渡り、アメリカ大陸を南下してきたのだ。彼らは狩猟民族で、マンモスなど動物を追って移動を続けた。この人たちがアメリカの古代先住民となる。

 彼らは、フラッグスタッフ一帯でも生活をし、狩猟を続けた。今、約11,000年前の槍などが発見されている。 

 アナサジ族
 人間の定住が確認できるのは、約2.500年前の遺跡からだ。アナサジ(Anasazi)と考古学者が呼ぶ先住民がアリゾナの北東部に定住した。彼らは農業を営み、サンダルやカゴなどを作った。 
 シナワ族

 アナサジが去った後、約1,000年前、シナワ(Sinagua)と呼ばれる種族がフラッグスタッフやセドナなど北アリゾナに移って来た。彼らが遺した遺跡がフラッグスタッフ周辺に存在する。

 ウォルナット・キャニオン(Walnut Canyon)遺跡

 フラッグスタッフの東にあるキャニオンに岩を削って洞窟を作り、そこを住居としていたシナワ族の遺跡がある。ハイキング・コースが作られていて、遺跡を身近に見て、当時の生活を知ることができる。

 ウパッキ(Wupatki)遺跡

 12世紀の村落跡。この遺跡は、フラッグスタッフの北東に位置する。ウパッキと呼ばれるこの古代遺跡は、泥で作り上げた住居の壁や土台がそのまま存在し、当時の生活を推定できる貴重な史料だ。

 彼らは、サトウキビ、豆類、綿花を栽培し、他の部族との交流も盛んだったようだ。ここでは、貝殻の装飾品も見つかっているので、海岸付近に住む部族との物々交換があったと推測されている。彼らが作った年度の人形や犬、家屋の模型などが当時の生活を物語っている。

 スペイン人を追いやったサンフランシスコ山

 16世紀にスペイン人たちがやって来た。彼らは金の町を求めて、北アリゾナまで足を伸ばして来た。1540年に彼らが書いた日記には、ホピ族、ヤババイ族、ハバスーパイ族との遭遇、そして、こうした先住民の生活が記述されている。

 17世紀半ば頃には、スペイン人のミッションと呼ばれる共同体ができていた。ホピ族の生活に入り込んできたスペイン人への不満と反感が先住民の間に鬱積していた。その不満の一つが、サンフランシスコ山への扱いだった。先住民にとって、この山は聖なる山。この山にサンフランシスコと勝手に名前をつけ、しかも、神々しい扱いをしないスペイン人に、先住民は怒りの感情が湧き上がっていた。

 ついに1680年、プエブロ暴動が勃発し、ホピ族が立ち上がった。そして、スペイン人たちを一掃したのだ。こうしてフラッグスタッフ一帯からスペイン人が立ち退いたが、地図には一つだけ彼らが残していったものがあった。 それが、「サンフランシスコ」という名前だった。

 白人を感動させたサンフランシスコ山

 1848年、幌馬車の一隊がこの地にやって来た。彼らは、頭部から西部の探検をして旅するアングロ白人だった。その中の一人、ボルドウィン・モルホースンは、クリスマスの日にこの地でキャンプを張り、サンフランシスコの連邦を見た感動をこう記している。

 「崇高な山の頂上を私たちは見上げていた。私たちには創造主の神に祈りを捧げる教会はもはや必要なかった」

 1857年に二年間、道路建設のために滞在していたエドワード・フィツジェラルド大尉は、「万年雪に包まれた雄大なサンフランシスコ山は、完璧な風景を作り上げている」と感歎の意を表し、「私がこれまで見た中で世界一美しい場所である」とまで賛嘆している。

 1867年、ウィリアム・ジャクソン・パーマー将軍は、鉄道建設の予定地を見つけるために、フラッグスタッフに二年間滞在していた。彼はこう言う。「私たちの大陸の東半分に住んでいる人々は、この地にある汚れのない空気と素晴らしい気候が肉体的にただただ快感を作り上げることなど知る由もないだろう」と。パーマーは、将来のフラッグスタッフに注目し、この地を鉄道建設の地として政府に推薦した。 

最初の入植者

 一番最初の入植者。それは、エドワード・ウィプル。1871年に彼は酒場を開業した。その後まもなく、1876年に白人の夫婦がフラッグスタッフに入植して来た。この夫婦は、トーマス・マクミレンとその妻。テネシー州ナッシュビルで生まれた彼は、当時のゴールドラッシュの流れとともに、カリフォルニアに移動していた。そして、フラッグスタッフに落ち着いたと言う記録が残っている。 

地名の由来

 フラッグスタッフの名前の由来には、いくつかの説がある。

その1。マクミレンが入植して数ヶ月後、ボストンから派遣されて来た入植先発隊がキャンプを張っていた。ボストンにいた住民からフラッグスタッフへの入植を希望する人たちへの準備を目的に、この地に到着したのだ。そして、ある平地を見つけた。そこには、たった一本の松の木が立っていた。この木は、良い目印になるということで、若者たちがその木の枝を切り落とし、裸の棒のように立つ木のてっぺんに星条旗を掲げたのだ。時は、1876年5月。フラッグ(旗)とスタッフ(さお)という町の名前となった。

その2。 ある旅人の一群が平地に立っていた松のきを見つけた。この木の枝を切り落とし、1876年7月4日、独立記念日に独立100周年を祝い、歌を歌って星条旗を掲げた。

その3。軍の分隊がこの地に立ち寄った。彼らは、松の木を見つけ、枝を切り落とし、星条旗を掲げた。

 いずれにせよ、星条旗が掲げられた松の木は、その何年も後まで星条旗と共に立ち続けたという。1891年にココニノ郡が正式にフラッグスタッフという町を制定した。

 
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