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生涯青春の町、サンシティー(1)

 アメリカ大手のディベロッパー、デル・ウェブ(Del Webb)社が手がけた本格的リタイヤメント・コミュニティー、サンシティー。この一大プロジェクトの成功は、世界から注目を浴び続けてきた。

 今月は、アリゾナのユニークな町、サンシティーを覗いてみよう。

ダンス教室で一汗 (写真提供:Sun City Visitor's Center)

 サンシティーはアメリカ最大規模のリタイアメント・コミュニティーだ。サンシティーの成功後、多数の同様なコミュニティーが建設されてきたが、サンシティーを上回るものは未だ皆無だ。
 1960 年にディベロッパーのデル・ウェブ社が建設したコミュニティーだが、内部にショッピング・センター、レクリエーション・センター、医療施設などを設置し、入居後安心して生活ができるように工夫されている。
 入居するには年齢制限があり、家族のうち一人が55 才以上でなければならない。またその他の家族も19 才以上となっており、例えば小さい孫が一緒に同居などしたい場合は、19 才以下であれば、3 ヶ月以内と限定されている。つま
り、若い人はシャットアウトだ。
 現在サンシティーに住む住人は42,500 人。家屋は26,000 軒。新規建設は一切なく、家の再売却でのみ購入可能となる。サンシティー内にあるレクリエーション・センターは7カ所あり、ボーリングや体操、テニス、ラケットボールなど各種スポーツ、裁縫、工芸品作成の教室、コンピューター・クラブ、ダンスなど幅広い分野の趣味を楽しめるようになっている。センター内のプールは有名で高齢者のグループが水中でダンスする姿は見事なものである。図書館も2カ所あり、読書や調べものなどに気楽に使うことができる。
 アリゾナはゴルフのメッカだが、サンシティーも負けず劣らず、18 ホールのゴルフコースが7 カ所、カントリークラブ1カ所、パブリック・コース1カ所と毎日でもゴルフ場に出かける住人は多数いる。
 買い物も問題なく、ショッピング・センターは16 カ所も整っている。
 住民は家屋一軒につき、ホームオーナー・アソシエーション料を年間360ドル支払い、これがレクリエーション・センターなどの運営に使われる。
 サンシティーはフェニックスやグレンデールなどの地方自治体と異なり政府を持たない。従ってホームオーナー・アソシエーションなどの非営利団体が組織され住民の生活に寄与している。

  デル・ウェブ(Del Webb) に触れないでサンシティーを語ることはできない。彼のビジョンがアリゾナ砂漠の真ん中に作り上げたリタイアメント・コミュニティー。産声を上げた1960年以来今日まで、日本はもとより世界の注目を浴び続けてきたコミュニティーだ。
 デル・ウェブは、デルバート・ユージン・ウェブが本名。彼は1899年5月17日にカリフォルニア州フレスノで生まれた。父親は、大工であるとともにアマチュア野球の選手でもあった。この父親の影響は大きく、デルは幼少からノコギリと野球ボールを携えた。彼が14才の時に父親の事業が失敗し、経済破綻を余儀なくされた。そこで2年後、デルは一人家を出て、セミプロの野球選手となった。彼の野球の才能は顕著で、メキシコからカナダまで渡り歩いた。
 1917年、第一次世界大戦にアメリカが参戦すると、ウェブはオークランドの造船工場で戦艦を作る仕事に就いた。野球と違って、収入は安定した。そこで結婚。
 それでもウェブの野球への情熱はさめること無く、ボールを追って球場を走り続けていた。ところが不運が突然訪れる。1926年、球場のホームプレートで他の選手と衝突して肋骨にひびが入ってしまうような大けがをした。その後、後遺症で腸チフスに罹り激しい発作が襲った。
 これを見かねた彼の友人が彼に強く勧めたことがあった。それは「アリゾナ」に行くことだった。アリゾナの気候は彼の健康に最適な場所だと説得したのだ。そこで、1927年、彼は妻と一緒にフェニックスに引っ越したのだ。金槌とノコギリが商売道具だった。
 フェニックスのダウンタウンでは丁度、ウェストワード・ホ・ホテル(Westward Ho Hotel) が建設中だった。彼は早速雇われて、ホテルの客室ドアの取り付け作業を請け負った。その後、フェニックスの商店主、J.B. ベイレスに見込まれて、商店内の棚やキャビネットの作成、取り付けをするようになった。これが、デル・ウェブ・コンストラクション社の出発となったのだ。

写真提供:Sun City Historical Society

 大型プロジェクトを次々とこなすようになると、彼の会社はもちろん大発
展を遂げ始めた。ラスベガス、マイアミ、ニューヨークなど全米各地の建設作業をこなし、アリゾナで最も成功したビジネスマンと新聞で取り上げられるようになった。

 さて、ここで彼に大きな仕事が入って来た。これが、彼のビジネスに巨額の利潤をもたらし、結果的にサンシティー建設の成功へと繋がっていくことになる。

 それは、第二次世界大戦という戦争がもたらした皮肉なる歴史だった。パールハーバーへの日本軍襲撃で、在米日系人は強制的に強制収容所に送られていく。アリゾナにも2ヶ所の収容所が建設された。そのうち、ヒラリバー強制収容所は、デル・ウェブ社が請け負ったのだ。


 彼の成功は、彼自身の夢であった野球の分野にも反映した。彼は、第二次世界大戦が集結する1945年にニューヨーク・ヤンキースの共同オーナーとなった。その後20年間ヤンキースを支え、そして、アメリカン・リーグの会長に選任されるまでになった。

写真提供:Sun City Historical Society
   
 
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