日本兵士が残した羽織

太平洋戦争が終結して70年以上も経った。1941年12月8日に日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃して始まった太平洋戦争は、1945年8月15日の日本降伏によって終結した。そして、8月30日に連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥がマニラから神奈川県の厚木飛行場に到着し、米軍の占領が始まる。この時に、多くの日本海軍の軍艦が太平洋上で終戦を迎えた。そして、相当な数の日本の潜水艦も太平洋上で降伏することになった。そのうちの一つが「伊号第十四潜水艦」。この潜水艦の没収を目的で行った米海軍の兵士が潜水艦の中で見つけた日本兵士の所持品の数々。それが実は、アリゾナの地でそのまま残っていることがわかった。
今回は、その時に海軍兵だったルイス・レイノルズさんを訪ねて、当時の話を聞いて見た。

ルイス・レイノルズさんと日本兵士の羽織(フェニックスの郊外、アヴォンデールの自宅にて)
 
ルイス・レイノルズ

1924年生まれ。1945年にまだ21才の彼は、海軍の兵士として、米軍が侵攻し日本軍を撃退したグアム島に任務していた。日本の敗戦を知った後、新たな命令が下った。それは、太平洋上にある日本の潜水艦の占拠と確保であった。この使命を帯びた米軍艦は、早速その潜水艦の位置に向かった。その中にレイノルズさんはいた。

当時のレイノルズさん(写真提供:Louis Raynolds)
 

 

伊号第十四潜水艦

伊号第十四潜水艦(写真提供:Louis Raynolds)

 

記録によれば、伊号(いごう)第十四は、1943年の5月18日に川崎造船所で起工され、翌年の3月14日に進水した。これは、全長113.70mという超大型潜水艦で、プロペラ機を2機搭載した潜水空母だった。
伊号第十四は、1945年7月6日に日本の大湊にあり、その日、米海軍の航空機による攻撃を受ける。そこで、この潜水艦は、海中に入って攻撃を避けた。その後、7月11日に大湊を出港し、トラック諸島(ミクロネシア)へ偵察機を輸送する任務に就いた。そして、8月4日にトラック諸島に到着し、そのまま終戦を迎えた。こうして、香港経由で日本に帰国命令が出て、8月18日にトラック諸島を出発する。8月27日に東京近海で米海軍の駆逐艦2隻が伊号第十四潜水艦に横付けし、当潜水艦は正式に降伏をする。この時にレイノルズさんがいたのだ。
その後、潜水艦は、アメリカに回航されて、ハワイのパールハーバーで、試験や実験に使われた。すると、ソ連がこの潜水艦の技術に興味を持ち、アメリカに潜水艦の視察を要求してくる。アメリカは、ソ連に技術を持っていかれるのを恐れ、この潜水艦を沈没させることに決定。1946年5月28日に自沈させられた。

   
降伏時の潜水艦

降伏後、星条旗が日本国旗の上に掲揚される。(写真提供:Louis Raynolds)
さて、レイノルズさんの話では、米軍が潜水艦に近づくと、見えてきたのは、潜水艦の甲板に立っている多くの乗組員たちだった。おそらく全員がすでに降伏を覚悟して、米軍が来るのを待っていたようだ。レイノルズさんは、他の米軍兵と一緒に駆逐艦からボートに乗り換えて、潜水艦に到着する。すると、日本の乗組員兵士達は、レイノルズさん達が潜水艦に乗り込むのを助けてくれた。日本兵達は、米兵に抵抗なく、友好的で笑みを見せる者もいた。昨日まで殺しあっていた敵同士の兵士たちだ。米兵にとって意外でもあり、また、終戦の現実が明白となっていた。
レイノルズさんは、艦内を見るために下に降りて行き、乗組員の部屋に入った。彼がそこで見たものは、散々する日本酒の入れ物と、魚の頭などだった。魚はもちろん貴重な食料であり、酒は戦争ストレスを解消する手立てとなっていたのだろうか。

軍艦ミズーリーでの降伏文書署名(写真提供:Louis Raynolds)

降伏後の潜水艦と日本水兵。写真の上部に手書きで「酒飲みと魚の頭を食べる者たち」とある。(写真提供:Louis Raynolds)
杉山三郎氏
杉山氏は、現在、愛知県立大学名誉教授でアリゾナ州立大学研究教授。1952年に静岡県焼津市生まれた。高校卒業後、東京経済大学に入学した。当時まだ、学生紛争の火が日本中の大学でくすぶっていた。世界は冷戦の最中で、ベトナムでは泥沼の戦争が続いていた。
こんな情勢の時勢で、杉山氏は何かを模索していた。そして、20歳の時、思い切って日本を発つことにした。この旅は、若い彼が人生における何かを求めるための船出となった。旅を決意した彼は、短時間で旅費を稼ぐことから始めた。そこで見つけたのが「ばらし屋」の住み込みアルバイトだった。これを半年して、資金を貯めた。「ばらし屋」とは、建築物のコンクリート型枠などを解体する仕事で、肉体的にも精神的にもきつかったが、耐えて目標完遂を目指した。
   
日本兵が残した羽織

羽織に付いている紋章。上杉謙信の家紋か?
レイノルズさんは、日本兵の部屋に入ると、面白い物を発見した。そこで、彼は、それを手にして自分のバッグに入れた。その面白いものとは男性用の羽織だった。この着物は、黒の絹でできており、左右に紋章が入っている。その紋章は、竹を背景に二羽の雀が左右に対面しているような図柄だ。
さて、長い年月が経ったある日、レイノルズさんは、長い間保管していたこの羽織を本来の持ち主に返そうと思いたった。しかし、かなり過去のことでもあり、どうしたら良いかわからない。そこで彼の友人を通してこの紋章を調べてもらった。すると、面白いことに、この紋章は上杉謙信の家紋によく似ていることがわかった。上杉謙信といえば、戦国時代の越後の大名で、後世、軍神や越後の虎などと称せられた。この上杉家に定着した家紋は、「竹に二羽飛び雀」として良く知られるようになっている。
それでは、誰がこの羽織を潜水艦に持ち込んだのだろうか。今では、一つのミステリーとなっている。まず、考えられるのは、持ち主の日本兵が、上杉家の者か、または上杉家に仕えた者か、さもなくば、上杉家の領地に住居を構えていた者ということが想定される。そして、海軍で高いランクの者が所有者だった可能性が高い。
もう一つのミステリー。潜水艦の乗組員は、このような個人的な所有物を船内に持ち込むことができなかったはずだ。しかし、船内にこれを持ち込んだ兵士がいたこと自体が、不思議なことである。
ともあれ、この着物は、持ち主が見つからないまま、今日もアリゾナの地にあって私達の想像を醸し出す。
   
他の所持品

さらにレイノルズさんの手元には、日本兵士のいろんな所持品が大切に保管されている。
まず、紙幣。よく見て見ると、「大日本帝国銀行紙幣」、「日本銀行券」、「日本銀行兌換券」「大日本帝国政府紙幣」「Military Currency 軍票」と、色々異なった種類の紙幣がある。この紙幣の持ち主が誰であったかは、知るよしもない。貨幣として持っていたのか、それともコレクションの意味で保持していたのか。何れにしても紙幣の歴史を探る良い資料になるかもしれない。


そして、精工舎(SEIKOSHA)の懐中時計。これも戦時中もしくは戦前に製作され、裏には、乙型とあり、水の漢字が丸で囲ってあるので、海軍将兵用のものかもしれない。


次に数学/幾何学の教育書。表紙には、「受験研究 代数のあたま 改訂増補」とあり、著者は石野勝五郎。出版社は、東京有精堂。昭和13年(1938年)に出版されたもの。本を開くと、確かに勉強をしていた様子で、鉛筆で赤く囲っている箇所があったり、コメントが書かれている箇所も多い。


また、昭和19年3月24日消印のハガキで、長野県上田市諏訪郡の家族だと思われる人が差出人で、受取人は、「大湊防備隊第五分隊 土田一夫様」とある。他にも、神戸の山本喜美子という差出人で「佐藤昌介・岡田梅吉様」宛ての手紙もある。手紙では、神戸が空爆で完全に破壊されてしまった旨、沖縄がすでに米軍によって占拠されしまったことなどが書かれてある。


最後に伊号第十四潜水艦の総員名簿。そこには、「昭和二十年八月」とある。日本が降伏したのが、8月15日なので、この名簿がその前にできたのか、降伏後に作られたものなのかは不明だ。ここには、126名の名前がその出身地と階級役職付きで綺麗に清書されている。


戦争が終わって、70数星霜。タイムマシンでもあれば、羽織の所有者とも会って話すこともできるだろうが、今はすでに昔となり、当時のことを想像する以外にない。そして、この着物がミステリーをそのまま運び、次の世代に何かを物語ることもあろうか。

ルイス・レイノルズさんの自宅。奥さんのビー(中央)、娘さんのパット(右)