スミソニアン米国歴史博物館
日系人歴史展がアリゾナ公開

 アメリカを代表するスミソニアン博物館。その名は世界に広く知られたスミソニアン学術協会が運営する博物館の数々だ。分野は科学、技術、芸術、自然史等幅広く、19の博物館ならびに研究センターで設置されている。その主なものは、アメリカの首都ワシントンD.C.に設けられている。
 その中の一つ、歴史博物館が「過ちを正す」という題で、そして副題として「日系アメリカ人と第二次世界大戦」という日系人歴史展を2017年2月に始めた。そして、その展示が全米を巡回することになった。その巡回先の最初の地に、アリゾナ州フェニックスが選ばれ、本年1月から公開がスタートした。
 今月は、この特別展に足を運んで見た。

日本人を「ジャップ」と軽蔑し、ここは白人の地だと言って、日系人あからさまに差別していた当時の写真(展示の一部)
そもそもスミソニアンとは何?
 スミソニアンは人の名が由来。ジェームズ・スミソンというイギリス人の科学者がいた。彼は、1765年に生まれ、鉱物学や化学で大きな功績を残している。鉱物の一種で菱亜鉛鉱を最初に見分けたのが、スミソンだったので、その鉱物は、英語でスミソナイトと命名された。
 彼は、生涯独身で、1829年に死去している。正式な財産相続人がいなかった彼の意思で遺産は、アメリカ合衆国に寄付された。彼は、合衆国を訪問したことがなく、死後、遺骸だけが合衆国に送られ、棺は、ワシントンD.C.にあるスミソニアン協会本部ビル一階に安置されている。
 彼の寄付がスミソニアン協会設立の基金となった。
 

 

日系人歴史展

 

 スミソニアン米国歴史博物館では、第二次世界大戦下で人種差別と強制収容の被害に遭った日系人の歴史を伝える展示を作り上げた。この展示は、「過ちを正す:日系アメリカ人と第二次世界大戦」というタイトルで、ルーズベルト大統領による大統領令9066号が発令されて75年目の2017年2月に展示開始となった。

   
 
大統領令9066号とは?

 この大統領令は、通称、「防衛のための強制移動の権限」と呼ばれる。第二次世界大戦中の1942年2月19日に、当時のアメリカ合衆国大統領ルーズベルトが署名し発令したもの。この大統領令で日系人が強制収容をされて行くことになる。

 
 
なぜ大統領令が?

 この大統領令は、その前年1941年12月7日に日本軍が突然、ハワイの真珠湾を攻撃し、アメリカと日本が戦うことになった。この異常な状況の中で、ヒステリックな半日感情と恐怖感情がアメリカ国内に湧き上がった。日系アメリカ人と在米日本人は、いわゆる「敵性外国人」あるいは、「敵となる外国に祖先を持つ者」として、危険視され、それ以前からアメリカ国内でくすぶっていた日本人への人種差別感を一挙に燃え上がらせることになる。

   
敵はドイツ、イタリア、そして日本

 第二次世界大戦でアメリカの敵は、ドイツ、イタリア、そして日本であった。この大統領令でドイツ系、イタリア系のアメリカ人も強制収容の対象となった。しかし、その数から、日系人の強制収容は、ドイツ系とイタリア系と比較にならないほど膨大な強制収容となった。
 ちなみに、イタリア系は3,000人、ドイツ系は11,000人で、日系人は、なんと約120,000人もの数に及んでいる。そのうち、62%が合衆国で生まれ、合衆国の市民権を持つ日系二世や三世で、残りは、日本から来て在米していた一世だった。

   
日系人歴史展が伝える当時の様子

 スミソニアンの日系人歴史展は、その入り口に大文字で「Righting a Wrong(悪を正す)」と書かれたポスターがスミソニアンのロゴと一緒に掲げられている。
 そして、ドアを開けて会場に入ると、再び「RIGHTING A WRONG」の文字が目に飛び込んでくる。これが展示のスタート点である。会場は、それほど広くなく、展示物の数々がやや窮屈なスペースの中に設置され、床に貼られた足跡のマークが展示閲覧の順番を告げている。
 真珠湾攻撃を告げる新聞一面とその攻撃の写真が、見上げるような大きさに引き伸ばされて展示されている。新聞は、太文字で「戦争!日本がオアフ島を攻撃」と伝える。多くの在米日本人と日系人は、この新聞を見て、極度な悪い予感に身を震わせたという。

   
アリゾナと強制収容所

 全米に日系人強制収容所は、11箇所。アリゾナには、ポストンとヒラリバーの2箇所に設定された。2箇所合計で約3万人もの日系人/日本人が運ばれてきた。彼らのほとんどは、カリフォルニア州で生活を営んでいた人たちで、強制立ち退き同然の扱いで、着の身着のまま、家も家財も失って収容されることになった。

   
収容所で始まった野球

 日系人歴史展には、アリゾナのヒラリバー収容所で野球を始めたゼニムラの話や当時の野球グローブも陳列されている。ゼニムラは、「日系人野球の父」と呼ばれている。ヒラリバー収容所に送られた彼は、収容所近辺に野球場を作り、野球リーグまで始めた。辛酸を舐めた収容場内の日系人に明るい希望を持ち込んだ不屈の野球人だった。

   
忠誠か抵抗か、葛藤の日系人
 収容所内では、17歳以上の日系人に対し、国家への忠誠心の調査が行われる。とりわけ次の2つの質問がその核となった。
質問27:貴方は命令を受けたら、如何なる地域であれ合衆国軍隊の戦闘任務に服しますか?
質問28:貴方は合衆国に忠誠を誓い、国内外における如何なる攻撃に対しても合衆国を忠実に守り、且つ日本国天皇、外国政府・団体への忠節・従順を誓って否定しますか?
 日系人の8割以上は、この二つに「イエス」と答えた。その多くは、忠誠心というより、恐怖心からの回答だった。ところが、この二つに「ノー」と答えた日系人は、いわゆる「ノーノー組」と呼ばれ、危険人物の扱いを受け、厳しい監視下での収容所生活を余儀なくされた。
   
忠誠心を志願で表す

 アメリカ軍は、日系人部隊の編成を発表し、強制収容所内などで志願兵の募集が始まる。日系人は、皮肉なことに、アメリカに忠誠を誓って、自分の親の祖国を敵として戦うために戦場に出ることになる。
 その中で特筆すべき日系人部隊は、442連隊戦闘団で、日系人のみで構成され、極めて危険な戦地に送られたヨーロッパ戦線で最高の殊勲をあげた部隊だった。また、米軍語学学校で日本語を磨き、日本兵捕虜の尋問や押収した日本語書類の翻訳、日本軍の通信傍受などを担当した日系人も多数いる。中には、日本兵と間違えられて米兵に射殺されそうになった兵士もいた。

   
終戦後の闘争

 終戦を迎え、強制収容所から出てきた日系人に待っていたものは、相変わらずひどい人種差別の社会だった。その中で、日系一世が「仕方がない」と言って、ただただ我慢してきたのに対し、日系二世や三世のアメリカ人は、声をあげて人権回復への闘争を開始することになる。また、442連隊で活躍したワハイ出身の日系人、ダニエル・イノウエが日系初の連邦下院議員に選出されると、日系人の人権保護運動が政治レベルでも推進されて行く。日系人は、弁護士、医師、教育者など社会に積極的に出て、影響力がある人材に育っていく。その過程で、少しずつ、過去を見直す流れが出来始めた。
 そして、ついに1988年、レーガン大統領が、日系アメリカ人補償法に署名し、強制収容された日系人に謝罪。生存者一人につき、2万ドルの補償金を支払うことが決まった。

   
歴史を風化させない

 強制収容を経験した日系人は、多くがすでに死去し、生存者も高齢化している。日系アメリカ人市民同盟(JACL)などが、人権団体として、過去の事実を風化させることなく、次の世代にも伝えていく努力をしている。こうした歴史展は、ただ単に過去の歴史を伝えるだけでなく、今も、またこれからも起きるであろう人権侵害に少しでも歯止めとなる役目を果たすことを目的としている。
 まだまだ差別の多い現実。恥ずべき歴史を繰り返さないためにも、この歴史展がアメリカ中の人びとに送るメッセージを大切にしていきたい。

日系人歴史展のオープン式でスピーチするスタントン連邦下院議員。
このオープン式は、本年2月19日を選んで行われた。
2月19日は、大統領令9066号が発令された日系人の歴史で忘れてはならない日だ。
   
展示の巡回

 2017年にオープンとなった日系人歴史展は、良い反響を呼び、ワシントンD.C.に来ることができない人たちのために、本年から全米各地を巡回することになった。そして、その最初の巡回地にアリゾナが選ばれた。アリゾナの後は、ニューハンプシャー州、ミネソタ州、ユタ州、ニューメキシコ州と巡回する予定だ。
 アリゾナの展示会は、アリゾナ州会議事堂博物館内で行われている。
 住所:1700 W. Washington Street, Phoenix, Arizona 85007
月から金:午前9時から午後4時、土曜日:午前9時から午後2時、日曜日:休館
展示は、4月6日まで。